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第6回 理数インターのグローバル 『私は私、でよいか?』

2016/12/10

 先日、『ハリーポッター』シリーズを翻訳された松岡祐子さんのお話を伺う機会がありました。人気作品の翻訳の裏話は興味深く、とくに日英語の比較に関する部分は印象的でした。ご存知のように英語には日本語とは異なり、長幼の序を区別する慣習があまりありません。英語を日本語に翻訳する際、例えば ’sister’ を「姉」とするか「妹」とするかは大問題です。’sister’ と言及されていたとある作中人物について、松岡さんは何度も原本を読み返し、きっと「妹」に違いないと確信していたそうです。ところが著者のJ.K.ローリング女史に会う機会があった折に尋ねたところ、あっさり「姉」だと否定されたそうです。しかしストーリーが進み、話の後半でその人物が再び登場した時に、なんと今度は「妹」だとはっきり言及されていたのだとか。とくに秘密主義の徹底した『ハリーポッター』シリーズでは最後の最後まで展開が分からず、手探りで翻訳を進める苦労が絶えなかったとか。一部ではそんな箇所を見つけては誤訳だ、と叩く読者もいるようですが、松岡さんの功績は色褪せるものではありません。

 言葉とは文化そのものですから、日英語の慣習の違いは、すなわち英語圏の文化と日本の文化の差異に他なりません。いま高校2年生が学習している英語の「代名詞」もその例に漏れません。英語には自分を表す代名詞としては ‘I’ の一語しかありませんが、日本語にはどれだけの例があるでしょう。ハリーポッターの翻訳から拾っても、「私、わたし、僕、ぼく、ボク、俺、俺様、おいら、わたくしめ、あっし…」等々、枚挙に暇がありません。翻訳されずに省略される場合も少なくありません。登場人物の性格や立場、相手との関係などを考慮しながら代名詞を決めていかなくてはなりません。そう考えると、翻訳とは自国の文化に精通したうえで、他の文化との橋渡しする作業そのものだと気づかされます。柳瀬尚紀という翻訳家は「彼、とか彼女、という言葉が出てくる翻訳は読む気がしない」と著書に書いています。確かに中学生が英語のノートに「彼は英語の先生です。」と訳文を書いているのを見ると、果たして日本語でこういう言い方をするのはどういう状況だろう、と思ってしまいます。

訳文は英語の構文が理解できているかどうかを確かめるためなのだから、日本語にはそこまで気を遣わなくてもよい、という教師もいます。しかし、外国語を学習する目的の一つが、言語や文化に対する理解を深めること(文科省の指導要領にはそう明記されています)であるならば、そうも言っていられないはずです。

 帰国子女といわれる生徒が自分の父親を「彼はね」と呼ぶのを聞いたことがあります。テレビでもハーフタレントと呼ばれる若者が同様の言葉遣いをするのを耳にしたりします。ひょっとするとそれが「格好いい」と誤解されているのかもしれません。家庭で自分の親をどう呼ぼうが一向に構いませんが、少なくとも公の場面で自分の親を「彼、彼女」と呼ぶ文化は日本にはないはずです。英語の学習を通して自国の文化が曇って見えてしまうようでは本末転倒なのです。

共学部 教頭 右田 邦雄

 

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