“Read, read, read. Read everything – trash, classics, good and bad.” (『読め、読め、読め。何でも読め。駄作も古典も良しも悪しきも。』)
この言葉はウィリアム・フォークナーのものです。フォークナーはヘミングウェイと並び、20世紀アメリカ文学を代表する作家ですが、大学時代にこの作家の原書を読まさせられた苦しい思い出があります。
先の言葉は、『そしてそれらがいかに書かれているか理解するのだ。ちょうど親方に学ぶ見習い大工の如く。読め。吸収するのだ。そして書け。名文ならば自分で分かるだろう。駄文なら窓から投げ捨てろ。』と続くのですが、まさに大学に入りたての見習い新入生のわれわれには次から次に原書講読が課せられました。
高校ではせいぜい英語の授業で数ページの英文を読むかどうかだったのが、大学の最初の講義で400ページを超えるD.H.ローレンスの原書が配られたときには眼を丸くしました。最初は辞書と格闘しながらでしたが、とてもそれでは追いつけず、やがて文脈理解に必要の場合以外は極力単語の意味を調べずに読み進める術を身につけました。最後まで読んだときには、達成感に浸る間もなく次の課題が与えられました。サローヤン、ジャック・ロンドン、フィッツジェラルド、さらにはシェイクスピア… まさに「読め、読め、読め」でした。
ある時「いっぱしに英語が読めるようになるには、まず5万ページ読むことだ」、と指導教授に言われたことを覚えています。いま思うと確かにその通りだと実感します。多読を通して英文読解力は身についた気がします。そしてもうひとつ、眼に入る本を片っ端から手にとって読んでみる、という乱読習慣も身につきました。(その収穫の一部は『筆まかせ』で紹介していますが)
「人は自分より賢い人と付き合うか、さもなくば本を読むことでしか学べない。」と言った人がいます。確かに読書は、一人の人間が実体験するには限界があるものごとを私たちに体験させてくれます。知識が増えるだけでなく、分析能力、批判的な見方、問題解決能力、といった知の力、そして何より自分とは異なった環境にいる人の気持ちや考え方を理解する力を育ててくれます。
天からの配剤である、この学校閉鎖期間。もう一度、ほこりを被った本に手を伸ばすのはどうだろうか。外出しなくても、ワンクリックで本が届く時代だ。
読め、読め、そして読め。
(高等部教頭・右田邦雄)