「これは不名誉なことである。交通事故は、誰も幸せにしません。だから、皆さん気をつけて運転してください。」
これは、先日私が運転免許更新に行った際の講習担当者の言葉である。
昨年度、国内の交通事故で亡くなった方は一昨年度より減ったが、私の住む県では、増えたそうだ。亡くなった方が一人でもいることは大変悲しきことである。だが、決して不名誉ではない。不名誉とは、社会的評価を低くする恥ずかしいことである。つまり、私を含む県民が誰かに恥をかかせてしまったらしい。仮に減っていたならば「名誉」なのだろうか。
講習の趣旨は、各人が安心・安全に関する当事者意識の大切さを再認識することであるはず(失礼ながら「不名誉」な記録に加担した人はそもそもこの講習にはいない)。
伝えたいメッセージは後半の件なのはわかってはいる。が、人に何かを教える同じ立場であるがゆえにどうも腑に落ちなかった。
さて、日々の授業。
伝えたいことは何なのか。
どこまできちんと伝わっているのか。
「楽しい」「もっと知りたい」と生徒の気持ちを駆り立てるものなのか。
彼らが「やる気」になる授業なのか。
授業の運転手として、ここは大切にすべきポイントである。
人を車に乗せる際には、ドライバーは命を預かる意識がなければならない。
運転同様、良い授業とは先を見通す力がいる。急ブレーキや急にハンドルを切るようでは、先行きは暗い。
同乗者に不安を感じさせてはいけないのである。誰だって快適なドライブがいいに決まっている。
でも実はいつまでも、 ただ乗っているだけでは困る。
“drive”の元々の意味は「(何かが)進むことを促す」である。
車という「もの」はもちろん「人の気持ち」であっても、進むことを促すような場合には、“drive”で表現するのだ。また、名詞で使えば「やる気」という意味。“She has a lot of drive.”は「彼女はたくさん運転をしている」という意味ではなく、「彼女はやる気満々です」となる。
だから運転者としては、生徒のdriveを引き出し、勉強したい気持ちをdriveし、かつ彼らのstorage drive(記憶装置)に残るような授業にこれからもこだわりたいと思う。
だって、そのような授業ができれば、自ら勝手にハンドルを握り運転する学習者が生まれるから。そしてそれはなるべく早いうちが良いと思う。経験を積むことで運転技術にますます磨きがかかるのと同様に、知識が増え、英語の使い方も増えるから。
さらに自動学習者を増やすには、どうしたらよいか。
それは日頃から生徒一人一人に目を掛け、声をかければよい。頑張りを褒めることだ。
人は褒められたことは、しっかり覚えているのである。
私だって、20代の頃、卒業した教え子に「どうやって英語の力をつけたのか」との問いに、「ただ(先生の)英語の授業を受けていただけ」と言われたことを未だに覚えているわけだから。
彼の言葉は今も私を前へ前へと駆り立てているのである。
人に何かを教えることができることは、大変名誉である。
これを忘れてはいけないと思う。
総務部長 對馬洋介