廊下を歩いていると、授業中の様子が本校は見えます。
真剣な眼差しで先生の話を聞いている、問題を解いている、何かに真剣に取り組んでいる姿は実に素敵です。一方残念なことではありますが、「私語」と呼ばれる近隣の席の生徒とのお話に興じているものがいます。
そもそも「ダメなものはダメ」なのですが「なぜ授業中に私語をしてはならないのか」を改めて考えてみたいと思います。
【私語】とは、ある辞書によると
1 ひそかに話すこと。ささやくこと。
2 公の場であるにもかかわらず、自分たちだけでひそひそと勝手な話をすること。
1の意味でしか「私語」というものを認識していないものは、俺(私)は大きな声を出しているわけではないという理由で、それほど迷惑をかけている認識がありません。しかし、大切なのは2にある「公の場」という言葉です。漢字からもわかる通り「私語」は「プライベートトーク」なのです。
それは電車内の携帯電話でおしゃべりをしている人に苛立ちを感じるのに似ています。携帯電話でのおしゃべりを耳障りと感じるのは「公共の場」に「私的」なものが流れ込むからであり、物理的な音の大小ではないのです(実際に地下鉄の音のほうがうるさいと私は思います)。授業に参加するとは、公私の使い分けができると同義であり、ゆえに「私的」な話を生徒が持ち込むことは許されないのです。
タイトルの「ペルソナ」は「persona」と書きます。英語の「person(人)」の語源になった言葉とされており、ラテン語で「仮面」を意味します。元々は演劇等で使われていました。そこから俳優が演じる「役割」を意味するようになり、やがて「自己の外的側面」という意味に変化していきます。つまり、ペルソナは「他人から見た自分」という意味です。
提唱者で心理学者のユングは「仮面を上手に着脱できるようになること」が大切であると説いています。
教室にて先生のことを思わず「お母さん」と呼んでしまう小学生はかわいいかもしれません(言った本人もたいてい赤面する)が、「授業用ペルソナ」を着脱した自覚もないまま授業という舞台に突如現れる大根役者は実に不愉快なのです。
中学1年 学年主任 對馬 洋介