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第20回 理数インターのグローバル「ご不便をおかけします」②

2017/3/9

 前回のコラムでは仕事を休む「不便さ」に対しもっと寛容に、と私見を述べさせていただきました。興味深いのは「ご迷惑をおかけしてすみません」の掲示に象徴される謝罪文化です。常々、日本の謝罪は欧米文化のそれとは性質を異にしていると指摘されます。私はそれを、「賠償が伴うかどうか」という観点で考えています。アメリカのような訴訟社会では、謝罪の一言が思わぬ賠償責任に及ぶこともあるのはご存じのとおりです。翻って日本の社会における謝罪はどうでしょうか。多くの場合、それは誠意の表れの一部とみなされ、必ずしも責任追及につながらないことが多い気がします。

 

 私も立場上、近隣の住人の方へ生徒のお掛けした迷惑のお詫びに伺うことがあります。学校としての誠意をお伝えするものですが、謝罪をしたことによってそれ以上のものを要求されたり、賠償を求められたりすることはまずありません。中には「先生が悪いんじゃありませんよ。」と仰って下さる方もいらっしゃいます。このように日本の社会では謝罪をすることがある種のけじめであり、(極論すれば)それをもって全てを水に流し、今後の関係を修復するという了解があるようです。

 

 昨年の暮れに安倍首相がハワイの真珠湾を訪れ、アリゾナ記念館に花を手向けました。その際、「謝罪の言葉」の是非が取り上げられました。「オバマ大統領が原爆ドームを訪れたときも謝罪の言葉はなかった」、「いまさら賠償を求められることになっても困る」、「謝罪ではなく、これから先に向けた談話を」、等々の意見の中、首相から謝罪の文言は発せられませんでした。しかし、誤解を恐れずにいえば、私は謝罪の言葉があってもよかったのでは、と思っています。確かに日米文化間には「謝罪」に対する意識の違いは存在します。

しかし、謝罪の意味を自国の文化の物差しで測るのでなく、時には相手の物差しを持ち出したり、双方の物差しを比べたりしながら、相互文化の共有という文脈の中で認識することで誤解の恐れは少なくなると思うのです。これこそが異文化理解の本質だと思うのです。日米の文化における謝罪の意味の差異は、戦後70余年をかけて築いてきた日米関係を通し、すでに両国間で十分共有されているのではないでしょうか。仮に日本の首相が過去の遺恨に対し謝罪したとして、それをもって安直に賠償責任に話が発展するような脆弱な基盤の上に両国は立っているのでしょうか。むしろこの共通の文脈の共有こそが日米関係が世界に誇れるものであり、今後の平和を維持する礎に他ならないと思うのです。日本の首相の謝罪はそれを世界に示す格好の機会になったのに、と残念に思う気持ちはナイーブすぎるのでしょうか。(共学部教頭・右田邦雄)

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