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中学blog no11 「かえるのてにはきゅうばんがある。」

2019/6/7

「かえるのてにはきゅうばんがある。」
私の娘は幼い頃、カエルに関する文章を読み、「なんでカエルの手に番号があるのー?」「数字は8番でもいいのー?」と私に真顔で聞いてきました。

理解とは、外にあるものをそのままの形で受け入れることではなく、客として半ば迎えて、しかるべき所へすえるのに近い。受け手にそれだけの用意がなければ、あるがままに読むことはできないのはもちろん、そもそも何が何だかわからなくなってしまう(「異本論(外山滋比古)」より)。

なるほど。
当時娘は読んだ文と自分が知っている言葉や知識がフィットしなかったのでしょう。言葉は読めるからといって理解できた、とはならないのです。また、こうして人は文字でも音でも言葉には多義性があることを学ぶわけです。
哲学者の千葉雅也さんは「言葉とは傷跡であり、それは刺青であり、他者によって刻まれていく。」と述べています。このように自分の当たり前が壊れる状況で学んだ言葉はとても印象深く、身につけやすいと思います。

英語を学び始めたばかりの一年生。
異なる文化、異なる価値観を持つ人々が少しでも誤解がないように、かつ意思疎通ができるように作り上げられた結果、世界に流通したプラットフォーム、それが英語です。主語を前(全)面に押し出し、「僕は、私は〜」と利己的に振る舞う特徴があります。受け手に誤解を与える隙を見せないことが美徳と言えます。一方、日本語は曖昧さに拘り、相手を言葉で刻みすぎないようにあえて隙を与えています。背負う背景が異なるわけです。でも日本語も英語のどちらも相手のことを慮っており、手段は異なれど、伝えるという目的は同じです。

彼らはいまthisとthatの違いを学んでいます。日本語にしてしまえば、「これ」「あれ」です。自分に近ければ、前者、遠ければ後者と習った人も多いことでしょう。でも、これだけではつまらないし、味気ない。
喧嘩する男性たち、お互いに襟首を掴み、「この野郎」と罵っています。間違いなく相手は目の前にいます。これがthis。彼らは帰宅後も怒りは収まらず、思わず「あの野郎」と呟くかもしれない。これがthatです。
間違いなく存在し、触れることができるのがthisであり、thatは目の前に対象はいる(ある)必要がなく、概念も含めて使用できます。此岸(この世)、彼岸(あの世)でも理解は深まることでしょう。
学年が上がれば、“I think that〜”は「私には思うところがあり(それは)〜である」とthisではなく、thatとなることへの理解にもつながるし、関係代名詞もしかり。The man that I met yesterday was so nice. 昨日会った(ここにはいない)その人、となるわけです。

「傷跡」は嫌でも残ります。ならば、どのようにそれを刻み、しかるべき場所と時期に新しい知識である客人を収めておくのかが大切だと私も思います。そうでないと、学習者は後々戸惑うからです。先ほどのthatの件では、その概念の理解なしでは、同形ゆえに正しい理解は困難なことでしょう。
語学を学ぶということは、話せればいい、意味がわかればいいということだけではなく、母語との比較をしながら自分(自国)の文化を客観視する力も同時に身につけることも含まれるのです。
言葉や文化は体に刻まれる刺青です。それは「文身」とも言います。自分の「分身」もつくる責任と楽しさを噛みしめる日々です。

総務部長 對馬 洋介

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