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第141回生徒blog『後輩たちへのメッセージ~答辞~』

2019/3/16

3月14日に共学部理数インターの第7回卒業証書授与式が行われました。お忙しい中、ご列席を賜りました皆様に、卒業生を代表してお礼申し上げます。式の中で、後輩たちへ託した答辞を読ませていただきました。列席できなかった後輩たちにもメッセージを託したく、この場を借りて紹介させていただきます。
                         宝仙学園理数インター七期生卒業生代表 飛田 祥太


春の訪れを感じるこの日、私たち七期生174名は晴れて卒業の日を迎えました。長かった大学受験の季節が過ぎようとし、私たちの多くがその結果を手に、いま、この場に立っています。本日は、このような素晴らしい卒業式を挙行頂きまして、誠にありがとうございます。またお忙しい中、ご列席を賜りました来賓の皆様、卒業生を代表して、心から感謝申し上げます。

 

三年前の入学式。中等部からそのまま高校へ上がった者、また高校受験を経て、中には志望校に落ちた失意のうちに仲間に加わった者など、さまざまな心境で迎えたあの日から三年が経ち、私たちはまた大きな節目を迎えようとしています。私たちのこの三年間は「あっという間」と言えるものでは、決してありませんでした。勉強、部活動、行事、友人関係、恋愛、また親子関係など、七期生がそれぞれの課題に挑み、挫折し、学び、成長を積み重ねてきた、意味のある三年間ですから。

 

 私たち七期生は様々(さまざま)な面で名をはせた学年でした。良い意味でも、悪い意味でも「理数インター史上初の…」 という形容がされる学年だったのではないでしょうか。覚えておられる先生方もいらっしゃるでしょう。中学一年生の頃。教室全体が遊園地でした。床には落とし穴が作られ、ロッカーからは生徒が宙を飛び、暑くもないのに教室のドアが外される、などということは日常茶飯事でした。小学校7年生とも言われた私たちを、「こんな学年は初めてだ」と先生方は嬉しそうに、実に忍耐強く見守り続けてくださいました。そのお陰で、私たちの中に捲かれた種は「知的で開放的な広場」という土壌でやがて開花していきました。そのひとつが高校2年時の体育祭です。我々の代表が、種目案の作成から全体の運営までを取り仕切るまでになり、生徒による生徒のための行事が初めて達成できたとの評価を得ました。そのお陰で、普段の体育祭よりも2時間ほど多めに楽しむことができ、大いに顰蹙(ひんしゅく)を買いました。しかし、生徒による体育祭運営は、その後の理数インターの様々な行事にも受け継がれていく、史上初の出来事だったのです。

 

 史上初と言えば、これも高2のアメリカ研修旅行でした。ホテルのプールでは、宿泊客の迷惑を他所(よそ)に、あたかも市民プールを貸し切ったかのようなはしゃぎっぷりを披露。ホテルの方は「こんな日本人は初めてだ」と、嬉しそうに、実に忍耐強く見守ってくださいました。と、思っていたのは自分たちだけで、実は「これ以上騒ぐと警察を呼ぶ」とまで褒めて下さっていたと、後から先生方に伺いました。この場を借りて深くお詫び申し上げます。

 

 七期生の印象的な出来事を敢えて紹介しましたが、自分たちの轍(てつ)を踏むな、とこの場で後輩たちに伝えたいわけではありません。答辞というのは、そもそも在校生の送辞に対して「答える」から答辞というのです。在校生の皆さんと過ごす最後の一日に、これから最高学年になる皆さんに、そしてそれに続く後輩たちに伝えたいことがあります。

私はこの度、大変恐縮ながら卒業生の代表として門出の言葉を述ベる機会を与えられましたが、私はこの174名の代表に値するような功績は一切残していません。ずば抜けて良い成績をとったわけでも、部活動で活躍したわけでも、何かの大会で賞を取ったわけでもありません。私はこの大役に選ばれた時、なぜ自分が選ばれたのか全くわかりませんでした。先生方は理由をあえて教えてくださいませんでしたが、私が在校生に伝えるべき何らかのメッセージを持っているからではないか、と考えました。では、そのメッセージとは何か。先生方が私に与えてくださった、最後の問題でした。自分の歩んできた道を振り返り、何日も考え続けた結果、一つの答えにたどり着きました。これが先生方の求める答えであるかはわかりませんが、私は最後に、在校生の皆さんにこのことを伝えます。

 

 それは、「自分のやるべきことを決めるのは最後は自分だ」ということです。一見当たり前のことのようですが、実際私たちは、現実逃避に近い形で、自分の人生を他人事のように生きてしまうことがあります。私がそうでした。

 

私はバスケットボール部に所属していましたが、残念ながら同期の中では主力メンバーではありませんでした。ろくにシュートも入らず、自分の実力不足は自分が一番わかっていましたし、試合に出ても皆の足手まといになるような状態でした。私には現実から逃げることも、部活をやめることも選択肢にあったかもしれませんが、それでも最後まで部活を続けようと思った理由は何だったのか。いま考えるとそれは、バスケ部の仲間たちと共に過ごす時間が好きだったからだと思います。このかけがえのない時間を仲間ともっと共有したいと思い、そのために自分は何ができるかと考えました。最後に自分で決めた答えは、「自分にできることなら何でもやる」ことでした。私は最高学年になっても、雑務を率先してやることを心掛けました。それが顧問の先生方に認められたからかどうかはわかりませんが、引退試合では出番をもらったうえに、最後は自信のなかったシュートも決めることができました。自分で出した答えは間違ってなかったと胸を張れます。

 

部活の引退が決まりいよいよ自分も受験生という立場になると、今度は勉強面での力不足を痛切に感じました。その時の私は、課題に向き合うことを避け、進路の目標すらはっきりときまっていませんでした。それでは勉強にも真剣に向き合えず、2学期になり、冬を迎えても苦手だった科目は改善されず、まさに春の頃の自分をそのまま冬に持ってきたような状態でした。そのことに焦りを感じた自分がたどり着いた結論は、幼少のころから興味がある分野に立ち返ってみる、ことでした。自分の人生である以上、自分のやってみたかったこと、やってみたいことを第一に考えてみよう、と思い、水産資源や海洋学を学ぼうと決めました。そのときからやっと自分は本気で受験に向きえたのだと思います。受験する大学を決め、先生方のアドバイスも受けながら、「自分にできることは何でもする」覚悟が生まれました。結果、希望する大学への合格が決まったとき、安堵(あんど)する一方で、最後まで投げ出さず、逃げ出さず、自分の覚悟を信じたことが正しかったのだという達成感を得ることができました。私の決定にほとんど干渉せず、陰で支えることで、自分のやるべきことを自分に決めさせてくれた両親や先生方に対し、感謝の気持ちで一杯です。

 

これから先、一年間の道のりを他の誰かが皆さんの代わりに歩いてはくれません。そのことだけは私の口から言えることです。皆さんはこれから一年のうちに、必ず自分にしかできない決定を迫られる時が来ます。現実から目をそむけたくなります。誰かほかの人に意思決定を委ねたくもなります。しかし、これは自分が自分の人生を生きる初めての一歩になるのではないか、とも思うのです。その一歩を自分のココロで決めてみませんか。もちろん、全て自分で解決しろということではありません。保護者や先生方、そして友人は、本当に、私たちが思っている以上に私たち一人一人のことを見てくれています。プレッシャーに押し潰されそうになりながらも、ここにいる174名が乗り越えられたのは、それまでどんなにやんちゃをしてきても、我々を見捨てず、一人ひとりに向き合ってくれた大人たちがいたからこそ、と考えます。

 

7期生の応援団長。学年主任の下川先生。持ち前の体力と力強さを活かし、これまで数々のトラブルの最前線に立ち、私たちを守り、励まし、そして最後まで私たちを信じてくれました。オトナへの信頼感が揺らぎかけていた私たちを最後につなぎ止めて下さったのは先生の熱い気持ちです。熱いと言えば、金子先生。まさに熱血という言葉が当てはまる先生で、本当にまっすぐに私たちを見てくださいました。7期の学年にいたかと思えば途中からいなくなり、ひやひやしましたが最後の一年に再び学年に戻って来てくださいました。私たちを見放さないで下さり、ありがとうございました。見放さなかった、といえば西村先生。先生は6年間、最初から最後まで私たち七期生を学年団のひとりとして見守り続けてくれ、七期生には欠かすことのできない存在です。熱いハートで、私たちの背中を押してくださいました。6年間、お疲れ様でした。同じくサッカー部の岡崎先生は、生徒のようなノリの先生で、私たちよりも子供じゃないかと思えるほどの大胆さと、独特の語り口で、私たちにとても近い距離で接してくださいました。先生の優しさに救われた生徒が少なからずいたはずです。そんな先生とまた椅子取りゲームをしたい、と言っている生徒も少なからずいるはずです。気をつけて下さい。子供っぽさと言えば私の担任の藤井先生を置いて他にいないでしょう。頭にかぶりものをして廊下を徘徊する姿がよく観察されました。そんな姿ゆえ、私たちは先生をより身近に感じることができました。コーチングは自分のクラスにとどまらず、他のクラスの生徒までも巻き込み、ベストなタイミングで的確なアドバイスを下さいました。相談のメールに対しても即座に返事を下さることから、本当に生徒のことを考えてくれているという安心感を与えて下さいました。それとも、単に暇だったのでしょうか。平井先生と桐原先生は、まさに姉妹のようなコンビでした。平井先生のあまりに特徴的な関西弁。時々、意味が分りませんでしたが、私たちの心の癒やし、拠り所でした。桐原先生は中1で担任をして下さった後、どこか遠くへ行かれてしまいましたが、最後にまた、7期生に戻って来て下さいました。いつも全力で、テンション高く私たちに向き合って下さった先生に、我々は少しは大人になった姿を見せられたでしょうか。

 

7期生にはこんなにも強力な、ユニークな応援団がついていました。もちろん8期生の皆さんにも、皆さんのことを信じてやまない応援団がついているはずです。その人たちが皆さんを信じてくれるように、あとは皆さんも、その人たちの言葉を信頼するだけです。そうすれば、私たちがそうだったように、仮に「未だかつてない…」という評価がつけられそうになっても、最後は自分たちにとって最高の学年の一員として高校生活を全うできるはずです。

 

 しかし、誰よりも私たちのことを思い、支えてくれたのは、やはり保護者です。仕事や家事などで、私たちよりもはるかに多忙な生活を送りながらも、私たちを支え、私たちの進路に理解を示してくれました。それでも、時に冷たい態度を取ってしまうこともあり、心配ばかりかけてしまいました。それでも私は、何があっても変わらず私を見守り続けてくれた保護者に対し、感謝の気持ちを忘れたことはありません。でも、いつもそばにいる人に対して感謝の言葉を伝えるというのは、照れくさくてなかなかできないものです。よって、高校卒業という節目に際し、この場を借りて心より感謝の言葉を私の両親に伝えます。

 

最後になりますが、行き詰まってしまったときは、身の回りの人々が必ず支えになり、時に自分の間違いに気づくきっかけを与えてくれます。それでも、最終的に自分の行動を決めるのは自分であり、自分の間違いに気づくのも自分だということを、この学校で私は学びました。ここにいる174名の多くは、いまやっと、自分の間違いに気づき、悩み、修正するという過程を経て、この場に立っているのだと思います。大きな達成感を持っている者も、少なからず不完全燃焼の気持ちを抱えている者もいるかもしれません。しかし、仮に目に見える結果を出せなかったとしても、このプロセスを経て、大切な何かを学んだ、という自負はあります。

 

 偉そうに聞こえるかもしれませんが、私たちが学んだことは何でしょう。人から信頼されること、人の信頼に応えること、自分の目標を自分で定め、そこまでの準備をすること。上手くいかなければ計画を修正し、また前進すること。ダメになりそうになっても諦めないこと。そんなときは周りを見て、志を同じくする友の姿に励まされ、力をもらうこと。そうやって自分の決めた途を進み、それで出た結果に対しては潔く全責任を負うこと。私たちは理数インターでこんな体験をし、こんなことを学んで卒業していきます。

 

このことをもって後輩たちへの答辞とさせていただきます。

 

 

 平成三十一年三月十四日

 宝仙学園理数インター七期生卒業生代表

 飛田 祥太

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