先生「どうして今までやらなかったんですか?」
生徒「やらなければいけないのは、頭ではわかっているんです。それがなかなか…」
先生「私はあなたはやればできると思ってるんですが。」
保護者「そうなんです、先生。うちの子、やればできるんです。」
先生「じゃあ、今日から毎日努力してやってみたらいいと思います。」
生徒「努力してみます。」
これは三者面談での「学習」に関するありがちなやり取りであると首肯する人は多いのではないだろうか。この会話にどのような印象を持つかは人それぞれであり、様々な受け止め方はあるかもしれないが、私はこのやりもしない、やろうともしない人に使う「やればできる」という表現は好きではない。
それは、このやり取りをしている人を以下に読み替えてみれば、よくわかる。先生は歯医者、生徒は患者とすると「歯磨き」の話に変わる。
歯磨きを「やればできるでしょ」と言われるものではないし、やらないと気持ちが悪いのが普通だ。
そもそも「気持ちが悪い」とわかる人は歯磨きが習慣となっている人だ。一方、磨く習慣のない子どもは、この「気持ち悪さ」が理解できないのだ。事実がなければ、良いも悪いもわからないのである。
当然歯磨きをしないといつの日か虫歯になるのだが、実に人の歯(体!?)はよくできており、子どもの虫歯は痛みが出やすく、急に歯に穴が空くそうだ。これは虫歯の侵食が狭く深いためだそうだ。痛みを知った子どもはこれでめでたく歯磨きを始めるというわけだ。
中学生にもなって、「歯磨きをしろ」と言われる人はどのくらいいるのだろうか。おそらくいないだろう。勉強しろ、と言われる人はどのくらいいるのだろう。これはいそうだ。そして、どのような「痛み」があれば、勉強するのだろうか。例えば「ゲーム禁止」や「携帯取り上げ」は効くのだろうか。そもそも「痛み」があるのだろうか。
また「努力します」なんて簡単に言うことはできるけれども「努力」は他人が「あいつは努力したな」とか「している」と言う(思う)ものだと思う。努力というのは、今の立ち位置の理解。次に自ら設定したゴールにいる自分とそこに向かう自分を想像し、行動した結果にしか過ぎないからである。
何かをしない代償である「痛み」と未来を想像できる力を身につけると人は成長するのだ。
ところで、大人の虫歯は広く、浅く進行するらしい。そのため、痛みが出にくく、自覚がないまま進行し、治療が遅れがちになるとのこと。
「歯磨き」をしない君。まだ間に合う。だって「手遅れ」と言われたわけではないのだ。想像力を働かせ、行動してみよう。さもないと、また「君はやればできる」って言われるぞ。
総務部長
對馬 洋介