成人して初めて訪問したアジアの国は、中国であった。
当時の北京は、当然今ほど栄えてはおらず、また当時の私には、今の中国の発展がこれほどのものになるとは想像もできなかった。
学生時代、父にこれからは中国だ。英語と中国語を勉強したほうがいいと言われ、
第二外国語で中国語を学んでいたが故にかろうじて、その目に見える限りの実態を胸に刻もうという意識があったように思う。
綺麗で豪華なホテルのあった大通りから一本裏道に入ると早朝から公園に集まり、太極!?の練習をしている人々、
軒先に干してある洗濯物、個人商店に出ている生肉等、
昼のお約束の観光名所巡りでは決して見ることのできないと見える当時の人々のリアルな生活。
その一端を見ることが私は結構好きだったりする。だから写真もたくさん撮る。
そしてこのように古い記憶も写真を頼りに思い出すことも可能なのだ。
今回の中三のアジア研修に帯同したが、同様にたくさんの写真を撮った。
例えば、自由時間に訪れたリトルインディア。
その中でも特に有名なヒンドゥー教寺院、スリ・ヴィラマカリアマン寺院は私には、強烈であった。
この寺院は「女神カーリー」を祀ったもの。
彼女は血と殺戮を好む戦いの女神である。圧倒的な悪さが信仰の対象となるらしい。
他にも外にも中にもそこら中に像が。彼の地を訪れた生徒達にも相当のインパクトを与えたと思う。
先に訪れたアラブストリートにあるサルタンモスクとはまさに対極の場所であった。
写真のように可視化できるインパクトは、言語化もできる。また人と共有もできる。さらに人によっては行った気分にもなれるかもしれない。
でもそれ以上にインパクトがあり、言葉にできないものがある。
それはその国(地域)の「匂い」である。
その地の土、食べ物、人等々、様々なものが入り混じった結果出来上がっている空気。それは私の楽しみの一つでもあるのだ。
海外に行くだけで、人の体は普段よりもアンテナを張り、その感度はあがる(と思っている)。
私の場合はそこにある「空気(匂い)」も意識的に取り入れる。
意図的に吸う行為をすると、体の隅々までそれが行き渡り、なんだかいつもとは違う自分、もしくは新しい自分になった気がするのだ。
私にとって異文化の入口は「匂い」であり、持ち帰ることのできない無形の大切な土産なのである。
それも一瞬しか体験できないのだ。滞在しているうちに慣れてしまうからだ。
でも不思議なことに例えば帰国後に写真等の有形のものを見るとあの時の匂いを体が思い出そうとするのだ。
ある特定の匂いが、それにまつわる記憶を誘発するプルースト現象の逆みたいなものだ。
三年生もきっとマレーシアでの学校訪問や家庭訪問した人々との交流の中で生まれたその瞬間の「無形」の土産を持ち帰ったと思う。
その国(地域)の様々なものが混じり、その国(地域)の匂いを作り出しているのと同様に、人間関係もそうである。
人は全員異なる環境で育ち、その人だけのオリジナル「匂い」があるのだ。
たまたま見た目が違う、使用する言葉が違う等々。
そして三年生は現地ではいつも以上に他者にアンテナを張ったはず。それが気遣いというものであり、相手の立場を思いやることだと思う。
そして、帰国後も自分の周りにいる人に対して、それを忘れないで欲しい。
君たちが日々接する人は、現地で出会った人と変わらないのだ。
たまたま同じ言語を使用しているだけであることを忘れていけないと思う。
総務部長 對馬 洋介